さて、第3回目は「フォレスト・ガンプ/一期一会」に関するお話です。本作の劇伴には数多くの名曲が使用されていて、ここから洋楽に興味を持った、という方もいらっしゃるかもしれません。僕のウォークマンにもサントラが入っていて、今でもよく聴いたりしています。
フォレスト・ガンプは1994年公開、監督はロバート・ゼメキス、主演はトム・ハンクスです。本作についてさらに詳しく知りたいという方はWikipediaをご覧ください。
ここから先は、お時間に余裕のある方のみ、お読みください。物語は僕が5歳だった1999年4月頃のことです。
煙草屋のおばあちゃんは、昼下がりの穏やかな陽気の中で、曲がった背中をさらに丸めて眠っていた。しばらく様子をうかがっていたが、一向に起きる気配がない。しかしこればかりは仕方ない、僕にはやらなければならないことがあるのだ。思い切って、いつもの調子で声をかけた。
「おばあちゃん、煙草くれよ」
商売人の反射神経で、おばあちゃんは瞼をぱっと開き、いまは白内障の影響で白く濁った、けれどもきっと昔は、美しく透き通っていたその眼で、僕をちらりと見て、よく来たねぇと間のびした返事をする。
「フィリップ・モリスを一つと、ジョージアのオリジナルを三つちょうだい」
「ああ、いつものだね」
「うん、いつものをちょうだい」
屋号が名入れされた受け皿に、僕は500円玉を置く。同時におばあちゃんは、手際よく缶コーヒーと煙草を袋に詰めて、ありがとうと言いながら、指先でぶら下げるようにして、袋を僕に渡してくる。
僕は袋の中から煙草を取り出して、素早くズボンのポケットに隠してやる。これなら巡回中の警官に出くわしても、袋の中の缶コーヒーに目をやるだけで、まさか5歳児のポケットに、煙草が忍ばせてあるとは思うまい。
僕はおばあちゃんに会釈を一つして、底がすり減った靴の踵を軸に、くるりと身体を回転させたところで、すぐに気づき、
「おばあちゃん、お釣りくれよ」と訴えた。
「ごめんねぇ、最近すぐ忘れちゃって」
おばあちゃんは自らの失態を、その時ばかりは少女の笑顔で打ち消して、差し出した僕の手の上に、そっと10円玉を乗せてくれる。僕はその10円玉を、煙草とは逆のポケットに滑らせる。
この10円は、単なる10円ではない。僕の日常を大きく変えるかもしれない、非常に重要な10円である。僕はずいぶん前から、10円貯金を始めた。それはひとえに、TSUTAYAで映画のビデオをレンタルするためである。部屋の隅に隠してある、蓋が錆びついた、古い缶ケース。これまで稼いだ10円玉がそこに入っている。そろそろ、まとまった金額になる頃だろう。一体いくらあるのか、数えてみるのが楽しみで、家路に乗せた足の運びも、心なしか、いつもより軽やかである。
僕には11歳離れた兄貴がいる。
僕が5歳の頃、高校生の兄貴は隣町にあるマクドナルドでアルバイトを始めた。当時は時給700円もなかったらしい。だが田舎の貧乏学生にとって、月に数万の収入はかなり大きい。そのせいもあってか、兄貴は最近、やたらと羽振りが良かった。
兄貴のバイト代は、大きく分けて二つの使い道があった。一つはプロレスである。毎週買ってくる週刊プロレスの、あのページやこのページを見ておけと、なぜか僕に宿題を課す。プロレスショップの通販かなにかで買ったらしい、安っぽいレプリカのチャンピオンベルトを、誇らしげにどうだと見せてくる。挙句の果てには、四の字固めやパイルドライバーを僕にかけてくる。年齢差に伴う体格差のせいで、僕の抵抗は無意味であり、それどころか、次第に兄貴は愉快になって、いっそう激しい攻撃を仕掛けてくる。そのために僕は幾度となく涙を飲んできたのである。
それからもう一つ、兄貴がバイト代をつぎ込んでいたのが、缶コーヒーである。兄貴は無類の缶コーヒー好きであった。そして買い出しはほとんどの場合、この僕だった。
ある日、例によって兄貴から使いを任された。ジョージアのオリジナルを三つ買ってこいという指令だった。それから奥にいる親父に、得意げな調子で、煙草買ってやろうか?……悪いね、助かるよ……親父の返事が届くと同時に、兄貴は僕に向き直って、そしたらお前、親父の煙草も一緒に買ってこい……有無を言わさず、兄貴は僕に500円玉を握らせ、行ったこともない煙草屋までの道順を、不明確な口頭説明で片付けてしまう。釈然としない僕は無言の抵抗を試みた。しかしあっさりと、サソリ固めに屈してしまう。それから兄貴は、痛みに涙を滲ませる僕を外に放り出す……さっさと行ってこい、走っていけよ……兄貴の捨て台詞と、決して戻ることを許さない、激しく戸の閉まる音が、折れかけた僕の闘争心を揺すぶり起こす。不当な要求と、それに伴う武力行使は、対話で何とかなるものじゃない。そんな理屈が通じるのは、平和に侵された世界しかない。これは早急に反撃能力を備えなければなるまい……しかしそれにしたって、今の僕と兄貴では、あまりに力の差がありすぎた。
煙草屋のおばあちゃんは、うんうん頷きながら、こうした僕の事情をよく聞いてくれた。
「そりゃ大変だったね、でも大丈夫、そういうことなら、ちゃんと売ってやるから安心しなよ」
久しぶりに、良き理解者と巡り会えた気がする。おばあちゃんは初めて会った僕を、無条件で信用してくれたのである。それから、おばあちゃんは遠くに視線をやって、
「わたしは兄に迷惑ばかりかけたからねぇ」
と急にしゅんとする。
聞くところによれば、おばあちゃんの兄という人は、若くして戦争で死んだらしい。家族想いの、真面目な男だったという。戦争は良くできた人間ほど先に死んでしまうから悲しい、などと言って、僕に聞かせるのである。僕は兄貴の顔を思い浮かべた。なんだか、おばあちゃんに申し訳ない気持ちになった。どうせ戦死するなら、兄貴のような者であるべきはずだった。
それから、先日ひ孫が産まれただとか、去年の暮れに夫を亡くしただとか、どこまでもおばあちゃんの話は、人間の生死に関わるものばかりだった。僕はだんだん煙草と缶コーヒーのことが気になりだして、ついに、さっき注文した品は500円で足りるのか、尋ねてしまった。
「ごめんねぇ、最近すぐ忘れちゃって」
見た目からは想像できない、若々しい滑らかな動作で、おばあちゃんは煙草と缶コーヒーと釣り銭の10円を僕に渡した。僕は礼を言って、たぶんまた来ると思います、と結んだ。
家に帰ると、待ち受けていた兄貴にさっそく缶コーヒーを奪い取られた。兄貴はそれをぐびぐび飲みながら、暇さえあれば目を通す、プロレス選手名鑑を、しげしげ眺めはじめる……この男は、やってもらって当たり前だと、本気で思っているらしい。今後も繰り返されるようなら、さすがの僕も発狂しかねない。なんとかして、この苦行を回避する方法を考えなければ……ふいに、先ほど貰った釣り銭の10円玉が、ポケットに残されたままであることに気づく。ところがいくら待っても、兄貴は釣り銭を要求してこない……ひょっとして、このままこの10円をくすねても、気づかれないのではないか……すると、それまで凝り固まっていた思考が、攪拌されたように、ときほぐされていく。そう、見方を変えればこの苦行も、実は都合の良いビジネスであって、10円が20円に、20円が40円となり、しまいには、TSUTAYAで映画をレンタルできるほどの……たちまち、霧が晴れてゆき、僕ははっとする。危うく、好機を逃すところだった。生命力の強さは、いかに不都合を逆手に取れるかで決まるのだ。
思い立ったが吉日、その日から僕は10円貯金を始めた。手頃なサイズの缶ケースを見つけたので、貯金箱代わりに使うことにした。
度重なる兄貴の注文に、僕は耐えた。大好きな映画を手に入れるためである、これくらいの事で折れてはいけない。次第に増えていく10円玉が、僕の生きる希望となっていたことは言うまでもない。
そしてついに、その日がやってきたのだ。
煙草屋から帰宅後、いつものように、持ち帰った品を兄貴に上納する。隙を見て、例の缶ケースを持ち出し、誰にも見られない場所で、今日の10円玉と、貯金済の10円玉を合わせて、一枚ずつ丁寧に数えあげる。10円玉はなんと40枚をこえていた。僕は歓喜に胸を躍らせつつも、ここは一つ深呼吸をして、早る気持ちを抑える。今すぐにでも家を出ていきたいところだが、休日とあって、兄貴の他にも親父や母がいる。目の数を少しでも減らしたかった僕は、平日の午後、幼稚園が終わった時間帯にかけて動き出すことに決めた。
そして数日後、僕はいよいよ計画を実行に移した。まずは前もって玄関先まで運んでおいた缶ケースをそっと抱きかかえる。次にそこから家の中にいる母に向かって、外で遊んでくると叫び、僕は光の速さでTSUTAYAへ向かう。ビデオを探す段になって、そうだな、僕が知ってるハリウッドスターの、アーノルド・シュワルツェネッガーか、もしくはジム・キャリーが出演している映画がいいだろう……だがここにきて、事前に下見をしておかなかった付けが回ってくる……首尾良く目的のビデオが見つからず、僕は焦りはじめた。もういい、面倒だ、映画なら何でもいいさ、と適当なビデオを手に取ってレジに向かう。多少手こずりはしたが、ここまでは概ね計画通りである。ところが暇そうにレジに突っ立っていた学生風の店員が、僕を見て、おおっと物珍しそうな声を発し、不敵な笑みを浮かべ始める。僕はだんだん居心地が悪くなって、すみませんとも、ちょっといいですかとも言えず、店員の目の前にドカンと缶ケースを置いて、金ならあるからこのビデオを貸してくれと言った。すると店員は急に澄ました顔をして、
「お客様、失礼ですが、会員証はお持ちでしょうか?」
「かーいんしょー?」
「当店は会員制となっておりまして、会員証をお持ちでない方にはレンタルができない仕組みとなっております」
「かーいんしょーって何ですか?」
「身分証をご提示いただきまして、こちらのお申し込み用紙に必要事項をご記入いただければお作りできます。ところでお客様、本日は運転免許証などはお持ちですか?」
ふざけてるのかコイツは。子供相手だからって、ずいぶん舐めた真似をするじゃないか。その証拠に、今もああしてクスクス笑っているのだ。しかし、申し込み用紙なるものが実際に存在するところをみると、コイツの言う、会員証がないとレンタルできないというルールは、どうも本当らしい……そういうことなら、僕はどうあがいても、身分を証明できない以上、白旗を振るしかないじゃないか……絶望が僕に襲いかかるのと、誰かが僕の肩に手をおいたのが、ほとんど一緒だった。驚きに飛び跳ねながら振り向くと、そこに、なぜか兄貴が立っていた。糖分とカフェインの過剰摂取によるずんぐり体型が、サイズの小さい学ランのせいで、ひどく際立っている。
「お前、こんなところで何してんだ?」
「……兄貴こそ、なんでここに?」
「これ」と兄貴はビニール袋の中から週刊プロレスを取り出して「買いに来た」
僕は黙ったまま、背中に嫌な汗を感じる。ここで話すのもなんだから、ひとまず離れようか……兄貴に外へ連れ出され、僕はそこで、執拗な取り調べを受けた。缶ケースの10円玉が、この事件における最大の争点となった。
「この金はなんだ」
「貯めた」
「どうやって」
「煙草屋」
「煙草屋?」と兄貴は、予想外の返答に、素っ頓狂な声を上げる。
「フィリップ・モリスとジョージアのオリジナルを3つで、490円」
「ああ……なるほどね……500円ちょうどじゃなかったわけか……」
どうやら兄貴は、最初から釣り銭はないものと考えていたらしい。ひとしきり、兄貴は何かを思案して、軽くうんと頷き、僕を手招きして、再び店内へ誘い込む……ちょうど借りたいビデオがあってね、バイト先の友達が、面白いと言うからさ……兄貴は商品棚から、フォレスト・ガンプを探し出し、先ほど応対した店員に会員証と一緒に渡す。おどおどと兄貴の半歩後ろをついて回る僕を、店員はじろじろ見て、こちらのお客様がお持ちになったこのビデオは、どうなさいますか……いや、それじゃなくて、これを借ります……兄貴は、僕から缶ケースを奪い、中から10円玉を全部出して、これで足りますかね……ええ、十分ですよ、こちらはお返しします……余った10円玉を、いたって自然な動作で、兄貴は自分の財布へ流し込み、そのまま無言で外に出て、雑に手渡された空っぽの缶ケースとレンタル袋を抱えながら、ただ呆然と立ち尽くす僕をそこに残して、兄貴は油が切れて噛み合わせの悪い3段ギア付き自転車で去っていく。
僕が受けた仕打ちは、たしかに酷いものだった。しかし兄貴は迂闊にも、僕という人間を、少々甘く見積もっていたようである。嫌がらせを働かせたつもりかもしれないが、今回は通用しない。フォレスト・ガンプだろうがなんだろうが、映画なら何だって構わないという精神が、僕にはあるのだ。それにこの国には、終わり良ければ全て良しという便利な言葉があって、多少の痛みを伴いはしたが、結果的に、映画のビデオを手に入れることができたのだから、これにて本件は万事解決といっても差し支えなかろう。そして兄貴が消えたいま、このフォレスト・ガンプとやらをじっくり鑑賞することが出来るわけである。実際この作品には、大いに楽しませてもらった。僕はこれだけで、十分満足したのである。
あの日以降、兄貴の注文内容に一部変更が加わった。煙草とジョージアのオリジナルを3つに、10円ガムが追加されたのである。だが兄貴はここにおいても迂闊だった。事情を知った煙草屋のおばあちゃんが、10円ガムをおまけ扱いにして、会計を490円に据え置いてくれたことを、兄貴はいまも知らない。
僕がTSUTAYAで初めてレンタルした?
作品は、フォレスト・ガンプである
僕がTSUTAYAで初めてレンタルした?
作品は、フォレスト・ガンプである